建築の不動産的コンテクスト

建築には、敷地やプログラム、時代という様々なコンテクスト(文脈)が存在するが、あまり設計を考えるにあたって経済というものをコンテクストとして積極的に捉え、形として提案する教育は学生時代は殆どされなかったように感じる。

それが現実に仕事となってくると、経済というものが土台にあり、その上で建築が成立していることがよくわかる。
経済的な産物であり、芸術的な側面も持ちうるもの、建築の側面としては様々あるが、経済性というものについては学校ではなかなか忌み嫌われていたような気がする。

学生らしく自由な発想を!建築の形や空間に拘る。
これらは確かに設計をするにあたって、根本になってくるのだが、ただ社会に出てずっと設計をしてきた私が振り返ってみると、
同期で設計を続けている人が異常に少ないように感じていた。

別に設計に進むことが一番大切と言いたいわけではない。
ただ私が気がかりなこととしては、あれほどの熱量を持った人達が社会で設計をしていこうとしていくときに、色々な要因で設計をしてご飯を食べていくことが、難しいと感じて辞めていっていくことだ。

それほど大学での教育というものが社会に通用していないということだろう。
やはりあれほどの熱量のあった人材を社会の資産に変えられていない建築業界は非常にもったいないことをしていると感じざるを得ない。

それではなぜ、建築業界で設計をしていくのを諦めていく人が多いか?
私は経済というものを積極的に捉えられていないからだと思う。

とある教授が言っていた。
建築家になれるのは、親が金持ちな人間だけだよ。
確かに、これは空しいが一つの現実だ。
そして建築の面白さを直接享受できるのは、お金持ちが多い。
というのも一つの側面である。
色々な可能性を語っているにも関わらず、なんでこんなにもブルジョワジーな文化なんだろう。

やはり積極的に経済性をとらえていくことは絶対に必要だと思う。
安月給で所員を働かせている建築家の設計事務所は、形にこだわれ、他のことを考えてしまうと良いものはできないとか、言いそうだけど。
はっきり言って老害でしかないと思う。

コルビュジエのピロティの仕組みも、当時の経済と合致して1階を駐車場にするビルが今はスタンダードになっているし、
オフィスビルだって、きっとミースファンデルローエの思考が反映されてプロトタイプが広まったように感じる。
またアメリカではプレーリースタイルという住宅がフランクロイドライトによって広がったし
あらゆる建築が経済性と合致することで広まったと思う。

それに対して、黒川紀章モダニズム中銀カプセルタワーが解体されるように、日本の経済性には合致しなかったので、

スタンダードにはならなかった。
色々考えるが、やはり経済性を積極的に取り込んだうえで、それをコンテクストとしてあらゆるものを包括しながら、建築の形態を進化させるような思考を繰り返していくことは、この先大切になってくると思う。

その一つとして、建築と不動産を横断的にデザインしていくことが大事なのではないか?